Mag-log in自分がようやく変えようとしているものは、彼女が期待を捨てることでしか耐えられなかった時間のずっと先にある。今さら「これからは違う」と言ったところで、その捨てられた期待が戻ってくるわけではない。「わたくし、もう待っていないの」 その一言は、怒鳴り声よりよほど重かった。「だから、旦那様が何かを変えると仰っても……昔のわたくしなら、きっとすごくうれしかったと思う」 ここで初めて、彼女の声が少しだけ揺れた。「でも、今のわたくしには、それを喜ぶための期待がもう残っていないのです」 ヴィルレオは目を伏せたい衝動に駆られた。だが、それは彼女の言葉から逃げることになる。かろうじて堪える。「……戻せないのか」 掠れた声だった。「何を?」「期待を」 リュゼリアはしばらく答えなかった。 窓の外を風が撫でる。卓上の茶が少し冷め、薄い湯気が途切れる。「わからないわ」 やがて彼女は言った。「でも、少なくとも今すぐには無理よ」 その答えは残酷なほど率直だった。「期待というのは、言葉ひとつで戻るものではないもの」「……そうか」「ええ」 そしてそこで、リュゼリアは少し困ったように首を傾げた。「怒っていたら、まだ簡単だったのかもしれないわね」 ヴィルレオは眉を寄せる。「簡単?」「ええ。怒っているなら、ぶつける先があるでしょう?」 その言葉に、胸の奥が静かに裂けるような心地がした。「でも、今のわたくしは、怒っているわけではないの」 リュゼリアは穏やかに続ける。「ただ、もう期待していないだけ」 それは、終わりの言葉に近かった。 終わりといっても、関係そのものの断絶ではない。怒って絶縁するような激しいものではない。もっと静かで、もっと冷えた終わり。相手が何かを変えるかもしれない未来に、自分の心を預けないという決意。 ヴィルレオはようやく、その重さを本当の意味で知った。 謝罪が届かないことよりも。 時間が戻らないことよりも。 彼女が自分へ期待することをやめた、その静かな事実のほうが、ずっと決定的なのだ。「……俺は」 言葉が喉で止まる。 何を言おうとしたのか、自分でもわからない。期待しなくていいと言うべきか。もう一度期待してほしいと言うべきか。どちらも違う気がした。 結局出てきたのは、あまりに弱い問いだった。「それでも、何かできる
「王都へ戻ったら」 ヴィルレオはゆっくりと言う。「屋敷のことを改める」 リュゼリアの睫毛が一度だけ揺れた。「……改める?」「ああ。帳簿も、人員の割り振りも、客の取り方も、食卓も」「食卓まで?」「お前に任せきりにしていたものを」 言いながら、自分の言葉がどこか必死で、どこか遅れているのを感じる。「これからは違うようにする。お前が」 そこまで言って、一瞬だけ喉がつまる。「お前が戻るなら」 リュゼリアの目が、静かに細まった。「戻るなら?」 その繰り返しが、やけに冷たく響く。「……そうだ」「戻ったら、変わると仰るのね」「変える」 ヴィルレオははっきり言った。「食卓も、朝も、屋敷の回し方も、お前が一人で抱えなくて済むようにする」 それは本心だった。 自分でも、ようやくそこまで言葉にできたのだと思う。もっと早くに知るべきだったし、もっと早くにそう言うべきだった。だが遅すぎるとわかっていても、黙ってはいられなかった。 けれど、その言葉を聞いたリュゼリアは、怒りも喜びも見せなかった。 ただ静かに、ほんの少しだけ寂しそうに笑った。「……そう」 それだけ。 その反応の薄さに、ヴィルレオの胸はひどくざわめく。「リュゼリア」「今さら、遅いのです」 彼女は怒鳴らなかった。 静かな、あまりにも静かな声だった。 だからこそ、その一言は真正面から入ってきた。 今さら、遅いのです。 同じ意味のことを、彼女は前にも言った。だが今日のそれは、昨夜の“失った時間には届かない”よりもっと静かで、もっと決定的だった。「わたくしが欲しかったのは」 リュゼリアは続ける。「旦那様が“変える”と仰ってくださる未来ではなかったの」 彼女の指先が、卓の上で静かに重なる。白く、細く、かつて自分の食卓や屋敷の細部を整え続けた指だった。「欲しかったのは、もっと前の時間よ」 昨夜と同じ言葉。 だが今朝は、その先がもう少し深く続いた。「朝に、食堂で会うことを苦にしないでいられること」「……」「何かを言った時に、ちゃんと聞いていただけること」「……」「夜更けに遅くなった翌朝、少しだけ顔を見てくださること」 その一つひとつが、何でもない。何でもないはずなのに、今となってはひどく遠い。「そういうものが欲しかったの」 リュゼリアはまっすぐヴィ
扉の前で一度だけ息を整える。 中から、食器の小さな触れ合う音がした。咳は聞こえない。少しだけ安堵し、同時に、その音に混ざる自分の居場所がないことを思い知る。 ノックをする。「……どうぞ」 リュゼリアの声だった。 扉を開けると、窓辺の光が柔らかく差し込んでいた。曇り気味の朝だが、南の別邸の光は王都のそれよりやさしい。卓にはひとり分の食事。リュゼリアは薄い灰色の室内着に、肩へ淡い青のショールを掛けて座っていた。顔色は相変わらず白い。だが昨日よりも目の焦点は落ち着いていて、夜のあいだ少しは眠れたのだろうとわかる。 彼女はヴィルレオの姿を見ると、ほんの少しだけ目を瞬かせ、それから穏やかに言った。「おはようございます」 その口調の整い方に、ヴィルレオは一瞬だけ言葉を失いかけた。 夫へ向ける朝の挨拶というより、館に滞在する客へ向ける朝の挨拶に近い。失礼はない。温度も低すぎない。けれど、その向こうに“待っていたもの”がない。「……おはよう」 返しながら、ヴィルレオは扉を閉めた。 アイダは傍らに控えていたが、二人の気配を察したのか、すぐに小さく一礼した。「茶を替えてまいります」 それだけ言い、部屋の外へ出ていく。完全に二人きりではない。廊下の向こうに人の気配はあるし、必要ならすぐ誰かが来られるだろう。けれど、今この食堂の中にいるのは彼と彼女だけだった。「座っても?」 ヴィルレオが訊くと、リュゼリアはごくわずかに視線を上げ、それから頷いた。「ええ」 卓の向かい側へ腰を下ろす。王都の長い食堂ではありえなかった近さだ。ひとり分の食卓に、あとからもう一人が座っただけの距離。その近さが、逆にどうしようもなく遠く感じられた。 しばらく、どちらも何も言わなかった。 窓の外では、風が低木の葉を揺らしている。卓上の粥からは薄い湯気が上がり、ハーブ茶の香りがかすかに漂っていた。こういう朝の静けさそのものは、決して嫌いではない。だが、そこへ自分がどう入ればいいのかがわからない。 先に口を開いたのはヴィルレオだった。「昨夜は」 そこまで言って、少し言葉を探す。「……眠れたか」 問いとしてはあまりにも凡庸だった。だがリュゼリアは、責めるでもなく答える。「少しだけ」「咳は」「ありましたけれど、ひどくは」「そうか」 また沈黙。 会話は続いている。
その夜、ヴィルレオはほとんど眠れなかった。 東側の客室は暖かく、寝台も広く、火の落とされた暖炉の残り香さえ心を鎮めるように整えられていた。王都の大公爵家の本邸に比べれば質素だが、不足は何ひとつない。むしろ、余計なものがないぶんだけ身体にはやさしい部屋のはずだった。 なのに、まぶたを閉じるたび、昨夜のリュゼリアの声だけが繰り返し蘇る。 謝罪が欲しかったのではないの。 欲しかったのは、あの当時の時間だったの。 当時の時間。 その言葉は、刃物のように鋭かったわけではない。声も穏やかで、顔も穏やかで、ただ事実を述べているだけだった。だからこそ、逃げ場がなかった。 自分の謝罪は本物だった。 悪かったと、心から思っている。 何も見ていなかったことも、気づかなかったことも、当然のように彼女の整えたものの上でだけ生きていたことも、全部。 けれど、その本物の謝罪が、彼女の失った時間には何ひとつ触れられないのだと、昨日はじめて思い知らされた。 何も見ていなかった。 何も与えていなかった。 それをようやく知った時には、彼女のほうはもう、その何もない時間を何百も何千も積み上げ終えていたのだ。 夜半、外で風が少しだけ強くなった。湖のほうから来る冷えた空気が窓をわずかに鳴らし、その音でヴィルレオは寝台の上で目を開けた。薄闇の中、部屋の輪郭だけが見える。椅子。暖炉。机。整えられた寝具。どれも静かで、どれも少し遠い。 隣の部屋には、誰もいない。 南の別邸へ来てから、その事実を身体の奥がまだうまく理解していない。回廊を曲がれば彼女がいる。風の入る庭へ出れば、その細い肩が見える。だが、夜になれば彼女はもう自分の隣にはいない。夫婦としての距離ではなく、ただ同じ館の中にいるだけの距離にいる。 それが、こんなにも重いとは思わなかった。 ヴィルレオは寝台を出て、窓辺へ立った。空は暗い。雲が薄く流れ、月は見えたり隠れたりしている。庭の輪郭はぼんやりしていたが、南側の花壇のあたりだけは、昨夜見た白と青の小さな色がまだうっすらとわかった。 あの花は、もう彼女のものだった。 白いマーガレット。青いネモフィラ。土へ触れ、植え、咳き込みながらも「もう少しだけ生きたいわね」と零した彼女の時間の中にある花。 王都では与えられなかったものを、彼女はここで少しずつ自分で見つけ始めてい
「……すまなかった」 ヴィルレオは、またそう言っていた。 自分でも、ほとんど意味を持たないとわかっている言葉を。 リュゼリアはその言葉に、困ったように、ほんの少しだけ寂しそうに笑った。「そういうところが、旦那様らしいわね」 優しいのか、厳しいのかもわからない響きだった。「謝って済まないとわかっているのに、謝らずにはいられないのね」「……ああ」 否定できない。「そうだ」「ええ。わかっている」 それ以上、リュゼリアは何も言わなかった。 暖炉の火が静かに燃えている。窓の外では、夜の風が湖のほうから細く吹き込み、枝をわずかに揺らす。その静けさの中で、謝罪にならない謝罪だけが、二人のあいだへ取り残された。 やがてリュゼリアが、小さく咳をした。「っ、ごほ……」 短い咳だったが、彼女はすぐに胸の前へ手を当てる。アイダが茶を差し出し、リュゼリアはそれを一口含んで息を整えた。「……今日は、もう」 彼女が低く言う。「ここまでにしてもよろしいかしら」 ヴィルレオは頷くしかなかった。「長くなった」「ええ」 彼女はカップを持ったまま、少しだけ目を閉じる。「少し、疲れたわ」「悪い」 反射のようにそう言うと、またリュゼリアが薄く笑った。「ほらね」 その笑みは、責めるものではない。けれど、もう届かない場所から見ているような笑みだった。 ヴィルレオは立ち上がる。椅子が床をほんの少しだけ擦った。アイダがすぐに近づくが、彼は首を振る。「……休め」 結局、最後に口をついて出たのはそれだった。 もっと違う言葉が必要な気がした。もっと、彼女が失った時間に少しでも触れられるような、真っ直ぐな何かが。けれど最後まで見つからなかった。 リュゼリアは静かに頷く。「ええ。旦那様も」 その答えの穏やかさが、また胸へ痛かった。 扉のところで一度だけ振り返る。リュゼリアは窓辺の椅子に座ったまま、カップを両手で包んでいた。暖炉の光が頬へ落ち、薄青い瞳の中に小さな火が揺れている。距離は近い。声も聞こえる。なのに、彼女はやはり遠かった。 謝った。 けれど、それは謝罪にならなかった。 いや、謝罪ではあったのだろう。ただ、彼女の失った時間へは届かなかった。それだけのことだ。 扉を閉め、廊下へ出る。 胸の奥に残っているのは失敗した会話の重さだけではない。た
リュゼリアは続ける。「旦那様が悪いと認めてくださること自体は、きっと、とても大切なことなのだと思う。昔のわたくしなら、それだけで泣いていたかもしれない」 昔のわたくしなら。 その一語一語が、もう戻らない時間を示している。「でも、わたくしが本当に欲しかったのは、その“悪かった”ではなかったの」「……何だ」 喉の奥が乾く。けれど訊かずにはいられなかった。 リュゼリアは彼を見た。穏やかな顔のまま、けれど瞳の底だけが少しだけ濡れたように揺れている。「当時の時間よ」 その言葉に、暖炉の火まで一瞬止まったように感じた。「謝ってほしかったのではないの」 リュゼリアは、ゆっくりと、噛みしめるように言う。「欲しかったのは、あの朝に“おはよう”って言ってくださることだったわ。あの食卓で、今日の紅茶はどうかと訊いてくださること。夜更けに遅くなった日の翌朝に、わたくしの顔色を少しだけ見てくださること」 ヴィルレオは指先に力が入るのを感じた。逃げるな、とまた自分へ言い聞かせる。彼女の言葉はまだ終わっていない。「そういう、何でもない時間だったの」 声は静かだ。責めているわけではない。だから余計に残酷だった。「今さら“悪かった”と言っていただけることは、うれしくないわけではないのよ。……でも、それであの朝は戻らないでしょう?」 そこで彼女は一度だけ目を伏せた。睫毛の影が頬へ落ちる。「わたくしが一人で食卓へ座っていた時間も。扉が閉まる音だけを聞いていた夜も。あなたの機嫌や食欲や頭痛まで気にして、自分の苦しさは後ろへやっていた日々も。全部、もう終わってしまっているの」 ヴィルレオは息を吸った。けれど次の瞬間、その息が喉で止まる。 言い返す言葉などない。 ないことが、痛いほどわかった。「だから」 リュゼリアは顔を上げた。「旦那様の謝罪は、本当でも、わたくしの失った時間には届かないの」 それが、答えだった。 あまりにも正確で、あまりにも静かな答え。 ヴィルレオはしばらく何も言えなかった。火の音も、風の音も、すべてが遠くなる。部屋の中にあるのは、自分の謝罪が届かなかったという事実だけだった。「……そうだな」 ようやくそれだけを絞り出す。 それ以上、何を言えばよかったのだろう。 “これからで埋め合わせる”と言えばいいのか。そんな言葉が、彼女の